「愛の法則」からみた病気②

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「愛の法則」からみた病気(P290~)

では、癌になりやすい性格というのがあるのですか?

そうだ。「エゴ的感情」(憤り・憎しみ・悲しみ・恐れ)に流される人と、感情のやり取りや表現が抑圧されていると感じている人だ。

それなら、病気は、物事に正しく対処しなかった罰だという結論になりませんか?

罰ではなく、内的な感情的苦痛の結果である。
病気を生み出すのは当人であり、癒せるのも当人である。そのために、魂の本当の姿を抑圧せずに表明して、エゴから愛へと自分自身を変化させねばならない。

でも、もう苦しんでいるのに、そのような重い病になることには、どういう意味があるのですか?苦しむだけで十分ではないのですか?

肉体の不快感は、内面の不快感の反映だということに気づくことだ。
この場合、肉体的な病気は、当人に内面の病を気づかせ、変化を促すためのアラームのような作用をしている。

でも、当人が、肉体的な病気が内側の病と関係していると連想できなければ、どう自己変革できるというのですか?

肉体的な病気は、内なる魂を出現させまいとする頭脳の防壁を弱めるもので、自己の感情のみならず、他者の感情や苦悩についての感知力を高める。そして、これが、人に変化を促すのだ。

自分が変われば、病気は治るのでしょうか?

大半は治るが、すべてのケースがそうではない。肉体レベルで修復不能な病害もあるのだ。

治らない人たちは、死んでしまうこともあるのですか?

そういことになる。

自分を変えても治らずに、どうせ死んでしまうのなら、病気にどういう意味があるのですか?

霊的視点では、肉体の命は本当の命のほんの一瞬に過ぎず、肉体の死は終わりでも悪いことでもなく、より制限のない別次元への移行期だということを思い出すことだ。
病気は、人がより高次の理解や愛、叡智へと進歩するために役立つ手段なのだよ。すでに述べたように、肉体の病は、内面の感受性の表現を妨げる頭脳を弱めるので、実のところ、進化に寄与するものだ。
人が愛における進化を出成し遂げた変化には、失われることがない。どこに行こうと、自分と一緒に持って行ける。これは、人生で得られるものの中では、もっとも貴重なものだ。要害を通しての目標に掲げることができ、もしそれを達成できたとしたら、魂は自分の仕事に満足して、穏やかに霊界に戻ることができる。実際、自分の魂に成し得た変化だけが、死ぬ時に持って行ける唯一のものだ。なぜなら、物的な成果はすべて、物質界に残るのだ。
イエスの次の言葉はこのことに言及しているのだよ。
「自分の宝を地上に積むのはやめなさい。そこでは虫とさびでキズ物になり、また盗人が忍びこんで盗み出したりする。自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が忍びこんで盗むこともない。自分の宝のあるところに、自分の心もあるからだ。(マタイによる福音書6章19~21節)

でも、死んでしまったら、学んだことをどう実践できるのですか?

魂は体に宿っていようと離れていようと、いき続けるのだと気づくことだ。どちらの場合でも、学んだことは球いいの一部となり、継続して進化していく上で役に立つ。

でも、家族や愛する人たちはどうなるのですか?過酷な病気になって必死に頑張って自分も変えたというのに、その愛する人を失ってしまうのは、ショックが大きすぎやしませんか?

病気であろうと自然死であろうと、愛する者たちとの別離は一時的なものだ。向こう側では、我々は皆、愛する者と再会できる。
物質界に生まれ出でる時には、その転生で一緒に生まれない愛する者たちと同じように別れてやって来る、と気づきなさい。彼らにとっては、それはトラウマとならない。一時的な別離だとわかっているし、生まれ変わる魂は霊的に進歩するためにそうすることを理解しているからだ。そのため彼らには君たちのような喪失感はない。
君たちが、生命は決して尽きることが泣く、肉体の死は終わりではなく、霊的次元への移行段階に過ぎないことを会得できれば、愛する者が死ぬことで生じる問題やトラウマや落胆の多くが、消え去ることだろう。

自分の葛藤を解消できずに、病気のせいで死んでしまう人たちはどうなのですか?

試練を乗り越えて自分に打ち克つために必要だった変革を実現できなかったので、霊的に停滞してしまうだろう。彼らは霊的に超越する戦いで「匙を投げた」のである。つまり、霊的に進歩できそうになかったので、彼ら自身が霊界へ戻れるようにしたのだ。次回の転生では、同じ試練を携えてきて、それを乗り越えようとするであろう。


『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳