「愛の法則」から 虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑥

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑥ (P205~)

自尊心から次の自負心への移行を決定づけ、両者を別々の段階とするものは何ですか?

自尊心の強い者は、愛を与え受け取る能力があるのに、傷つくのを恐れるがためにその両方を抑圧し、自分の周りに無感情という鎧を作ってしまう。この無感情という鎧がプライドなのだ。
この鎧をほぼ完全に消滅できることが、次の段階への移行となる目印だ。

無条件の愛への道のりの、最終過程に到着しつつあるようですね。

まだそうではないのだ。
魂が自分の抑圧や恐れから十分に解放され、感謝されないなどの否定的な態度を需要できるようになったとしても、その過程を完全に克服できたことにはならない。自尊心を乗り越えた魂はまだ、自尊心が進化したもっと巧妙なエゴの形態である自負心を克服する必要がある。

では、自負心というものが何で、どういう特徴があるのか説明して下さい。

自負心というのは自信過剰から尊大になることで、君たちが過って「自己愛」と呼ぶものが過剰にあることだ。
この段階の魂に残された二つの克服すべき主要課題は、謙虚でないことと、執着、つまり愛する者の愛を分かち合うことが困難なことだ。
自信過剰で尊大になると、他者を必要とせず、すべてにおいて自己充足的である。
他者を助ける気はあるが、助けを求めるのは弱さの証拠だと思う欠点があるので、本当に助けが必要な時でも自分から援助を求めることは稀である。そして、人に知られまいとする。
自分の必要性や弱さや欠点、気落ちしていることなどを隠しがちで、「どうしたの?何かできることはない?」と聞かれることがないように、誰にも気づかれないようにする。そして気づかれると神経質になり、自分が自己充足できていないことを認められずに腹を立てる。つまり、不信感、怒り、不遜が表面化するのだ。
自負心のある者は自尊心のある者よりも感化されにくく、忘恩で報われても傷つくことも少ないのだが、中傷されたり裏切られたと感じると、自分の計画通りに行かなかった時のように、怒りと不遜が頭をもたげてくる。
たとえば、理解して助けてあげようとしている者から軽蔑されたりバカにされたりすると、怒りと不遜が目覚め、「俺が誰なのかわかっているのか」とか「よくそんな真似ができるな」、「そんな口を叩くなんて、一体何様のつもりだ?」などと返答をする場合がある。
謙虚になれず、感謝されないことや侮辱を受容できない場合には、他者を種別して偏見を持ったり、接し方を変えたりする。自分のエゴを自覚し克服できなければ、助けて欲しいと近づいてくる人がいても、不信感に支配されてしまう。自分の偏見で特定の人が苦手になり、それぞれの必要性に応じて公正に平等に援助するのではなく、各人への不信感や恐れや不得手の程度などで判断することになる。
自負心のあるものは独りでも平気だと思っているが、認めがたくても実際には皆と同様に、幸せになるためには、愛し愛されていると感じるのが必要である。
そのため、感情面で自信がなくなると、独りで大丈夫という外面が崩れてしまう。確信していた愛を失う恐れは、不信感を募らせ、悲しませ、絶望的で無気力にする。こうなるのは、まだ執着心に苦しんでいるからで、愛する者の愛を共有するのが困難なためだ。

僕には、ごく普通の反応に思えますよ。愛する者の愛を失うのが怖いのは、皆に共通することではないですか?

無条件の愛の経験に至っていたなら、本物の愛は絶対に失われないと知っているので、執着で苦しむこともないし、何も怖いものがないだろう。

ではどうやって、自負心の段階を超えるのですか?

繰り返しになるが、愛して理解し、欠点のままに行動するのを避けるのだ。
魂が謙虚さを増し執着をなくすにつれて、尊大でなくなるだろう。そして、謙虚になり執着しないという資質は、見返りを期待せずに他者を心から助けるという、隣人愛の実践を通して発展する。
自負心が強すぎる者が、失望や屈辱を味わうことを恐れて、自分が与えることのできる援助を惜しめば、欠点を増徴させることになり、停滞してしまうだろう。だた、自分の恐れや偏見を克服し、気持ちに従って行動すれば、進歩できるだろう。

進化の視点からは何がエゴの起源ですか?つまり、魂の進化のどの時点で、エゴがうまれるのですか?

利己主義は動物的な生存本能の延長であり、魂が自分自身で決断し、自由意志で経験し始める時点で出現する。
進化が人間の段階に達した魂は、自由意志の力を発揮し始めたばかりだ。知能は基本的に発達しているものの、感情面がほとんど発達していないため、本能に影響されて決断することが多く、その中でも生存本能に支配されている。その状態から、感情の学習をして、自分の意思で決めながら独自の道を模索するという、本能から独立した進化をとげていくのだ。

もう少し詳しく答えていただけますか?まだ理解できないのです。

もちろんだ。魂が獲得したばかりの自由意志を行使し始める時は、本能に基づいて行うが、本能は、動物界での進化段階で、「魂の原型」が培った知識を集めた生物的プログラムの一種であり、人間の独立意志が発展する元となるものである。
本能は欠陥を補う仕組みであり、まだ自分自身で決定することのできない諸問題に関して、自動的に決断を下してくれるプログラムである。それは自動操縦装置のように、操縦できなくても進路を修正してくれるのであり、まだ機体の舵取りを学んでいる段階でも、衝突せずに運転することを可能にしてくれる。
本能の中には、どんなに過酷な状況下であろうと、肉体の死を避ける手段を探すように転生した魂を駆り立てるプログラム、ともいえる生存本能と、種の存続に欠かせない生殖本能とがある。
しかし魂は、同時に、初めての感情的な欲求を満たさねばという未知なる衝動も感じるので、満足はできない。だが、感情について無知であるため、これまで通りに本能を過大に満足させていればいいと思い込み、他の存在に与える害悪は考えずに知能をそのために使用する。

<次に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳