「愛の法則」から、エゴ的感情(貪欲-独占欲)、攻撃欲①

イメージ 1
















「愛の法則」から、エゴ的感情(貪欲-独占欲)、攻撃欲①(P234~)

●貪欲-独占欲

貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので(欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでもよい)、それによって他者が損害を被っても構わない。
貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持っていないものや他者のものを欲しがり、それを手にいれるまで留まるところを知らない。貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂であり、いつもt者の持ち物を切望しているので羨(うらや)み深い魂である。
魂が虚栄心の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。
人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、相手の自由意志を侵害したり、強要してしまうことには頓着せずに、できるだけ長く自分に構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。独占欲に支配されている人は、自分のことしか考えないことが多いので、他者を尊重することが非常に難しい。
独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、そのため、頻繁に犠牲者の振りをする。
独占欲は執着心との関係が深く、この二つのエゴの形態は、同時に同じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲も強い場合が多いのだ。
嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲で独占的な人には、羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人たちへの反感が、目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲であれば霊的所有物である。

それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的になるリスクがあるので、正しくはないのですか?

その逆だよ。我々は、皆愛される必要がある。自分の必要性を認めて頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので良いことだ。

それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることの違いは何ですか?

強制せず、騙(だま)さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占欲ではない。
独占的なのは、強要し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちやほやしてほしいだけなのだ。
愛とは自由にあたえられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面倒をみる義務がある筈だという思い込みだけで、特定の人たちに愛してくれと要求するのは間違っている。

霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか?

執着と似通った方法でだ。
すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階で始まり、自負心の段階の最後まで完全には克服されることがない。
魂は、愛する能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始めて精神的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛容になると、独占欲は徐々に力を失ってゆく。自尊心と自負心の段階では、独占欲は次第に減少していく。


●攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感)

攻撃欲の分野には、憎悪、恨み、怒り、無力感、罪悪感など、自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連したすべての「エゴ的感情」が含まれる。
攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が原因となる。攻撃欲とは、劣悪な形をとった生存本能なのだ。
攻撃欲はエゴのどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、各レベル毎で異なる。
虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目になろうとしたのに失敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、攻撃的になる。
自尊心の強い者や、自負心のある者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、もっと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたいことをしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感じた時などに攻撃性が起動する。憤怒(ふんぬ)すると、虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、ストレスを蓄めこむ傾向があるからで、自己コントロールを失うと突然爆発してしまう。
虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイに例えられる。
ライオンは肉食で他の動物を餌としているので、本質的に攻撃的で、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い者のものだ。
だが草食動物であるサイは、食べるために狩する必要がないので、乱暴に振る舞う習性はない。脅かされたり怪我をした場合など、ごく特別な場合のみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。
自負心のある者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲ににていて、単にその度合いが違うだけである。自負心が強いと滅多に感情を損なうことがないので、攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。
攻撃欲には、憎悪や恨みや憤り、さらには無力感にいたるまでいろいろな異形態が見られ、それぞれに独自の特徴がある。

憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これは、最も愛からかけ離れ、最も有害な一番原始的で致命的な「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。
憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む人を「怨恨者(えんこんしゃ)」と呼ぶとするが、こういう人はいつも、自分の憎しみは正当なものでコントロール可能だと信じているものの、いまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。
憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、すべてのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、孤独を感じないように似た者を探そうとする。
「怨恨者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしまう。結局のところ、それが彼らが望んだことだったのだ。
怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り)か小さい(腹立ち)かの違いである。
憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けれらた状態で、他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れを変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。
怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になりやすく、不機嫌であることが多く、自分自身と人生に不満である。自分の不快感の原因は外のもので内にはない、と自己を納得させるために外部のせいにして、不快感の本当の原因を探ろうとはせず、進歩を拒むので苦しむ。恨みはこうして生まれる。
罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。
自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。
たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。
無気力感は、消化器系の調子を狂わす。
抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。
攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか?

感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。
思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規範や規則、利己的な考えなども含まれる。
人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じることがある。それは多くの場合、愛に反したエゴでの行動を意味する。たとえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によって霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱える。この場合は間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。
人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情を検証する。とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが原因で人は善悪を混同し、人生を混乱させる感情は悪ものに違いない、との結論に行き着いてしまう。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発展を阻むので、大変否定的なものだ。

二つ目のケースがよくわかるように例を挙げていただけますか?

よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。
だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。これは、それまでに授けられた偏見と禁欲に満ちた教育のすべてに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を含める一連の思考が生まれる。
たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合(年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される恐れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまっただろう、など)。
思考が感情を負かし、心で感じたことをするのをやめてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。
感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。