エゴ的感情(強欲-執着)②

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「愛の法則」から、エゴ的感情(強欲-執着)② (P229~)

執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは論理的ですが、自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きました。執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、例を出していただけますか?

いいだろう。たとえば、前例の母親が、家族以外の人を支援することなど、自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると子供や夫の面倒が見れなくなると考えて、自制してしまう場合だ。
執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には罪悪感を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを自分に禁じてしまうかもしれない。

この例のような執着の顕われ方には驚かされます。家族に尽くす人は、一般的に愛に満ちた人だと思われていることが多いからです。

それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、頻繁に愛と混同されているからだ。多くの人は授かった教育のせいで執着が大層深く、それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。
女性は、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ罪悪感を抱かせられる。家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族からでさえ口うるさく批判され、「自分の家族よりもあの人たちのほうが大事なの?」とか「一体何でそんなことに関わるんだ?おまえはここに家族と一緒にいるべきだろ」「人にどう思われるだろうか!」などのコメントで罪を意識させられる。
男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から免れている訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人に手を貸そうと時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもならない場合には、他の人の執着によあって非難される。

でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか?

もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳ではない。
すでに言ったが、繰り返しておこう。真実の愛はなくなることがない。愛する対象がだんだんと増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳ではないのだ。
だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、自由時間も多くの人と分かち合わねばならない。それが、執着に苦しむ者には、前より少ししか愛してもらえていないと受け取られるのだが、実際にはそうではない。

人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか?他者を支援することに時間を割くようになると、自分の家族に手がかけられなくなるのではありませんか?

いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人たちと集まりたいと思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人たちに理解されることがなく、その人たちに、家族の義務を果たさないという罪悪感を弄ばれることだ。
よく観察すれば、誰かが週に一度、二時間かけて、おまけにお金も使って、サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をないがしろにしているという印象を持つ者はいないとわかるだろう。しかし、同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を二時間しに行く場合にはあらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまったという罪悪感を覚えてしまうのだ。
これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。執着は愛ではないし、この障害を克服できなければ、君たちは停滞してしまうだろう。

それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか?

いや、障害となるのは、自己成長する気がなく他者にも成長させまいとする魂たちの理解のなさだ。彼らは、進化を願う者を、それが家族のように血の繋がりがある者であっても、手中のすべての武器を駆使して押し留めようと努める。
理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるための支えとなる。しかい、地上の人類はほとんど成長していないために、霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいが、それができる人が他の者のために道を切り開かないといけない。
かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、執着による家族の理解のなさを乗り越えなければならなかった。イエスの家族は彼を理解できなかったので、霊的事柄に応じるために家の義務を投げ出している、と常にイエスを非難した。気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように仕向け、ヨセフがなくなって彼が大家族を養う羽目になってからは、特にそれが高じた。だが、それは真実ではない。イエスは、母親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。
しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだった。イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、福音書の次の一説に反映されている。
「そしてイエスは言った。『預言者はどこでも敬われるが、自分の郷里と家族の間では敬われない』」

でも、無条件に愛するためには、家族を放棄する必要があるのでしょうか?

霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるかい?家族は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で作られたのだよ。
夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、生殖本能や子に対する親の保護本能から発達したものだ。
唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、心を開いて分かち合い、家族の観念を広げて、すべての霊的存在がその一部であると考えねばならないということだ。
いいかね、人が愛するときにカテゴリーを設けるとしたら、真の兄弟愛の実現は不可能だろう。自分の家族を一番先にして、同じ故郷や国、同じ人種や文化や宗教の者を優先し、それで残ったものがあれば他者にもあげる、となる。
何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなのは、エゴがカモフラージュされたものだからだ。そのため、与える際にはリストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、次にそれ以下の人を記載し、何もくれない人は欄外にするのだろう。
このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しようと頑張る人たちがいようと、「愛の法則」を侵害している。連帯する権利から誰かを外してしまった瞬間に、連帯という言葉は意味を失うのだ。
このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託を謳(うた)い、他の人種を虐殺したり信仰の権利と個人の自由意志を排除して、それをでっちあげたのだ。

執着は、虚栄心の段階にも自負心の段階にも見られると言われましたが、これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

その通りだ。執着は虚栄心の段階に始まり、自負心の段階の最後まで克服されることがない。

それなら、執着に関しては、虚栄心から自尊心を経て自負心へと霊的に進化していっても、何の進歩もないのですか?

もちろんある。しかし、進歩は常に緩やかだ。
虚栄心の強い執着は、自尊心の強い者や自負心のある者の執着を同じ強さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。虚栄心の強い物は感情があまり発達していないので執着心はずっと強く、他者の自由意志への配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや進化への意志の弱さなどでそれが増長される。
自尊心の強い者と自負心のある者では、執着心は徐々に愛に変化していっているので(愛と執着の両方が混在している)それほど強くはないが、愛されないという恐れや愛する者を失う恐れによって増長される。

それでは、強欲と執着は、どう克服するのですか?

強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち克つためには、物的及び霊的な寛大さを発展させる必要がある。強欲と執着は、物的な面や霊的な面で、自分が持っているものを他者と分け合うことで、乗り越えられる・