反作用は行為の瞬間に起動するが、直ちに効果を発揮しない~「霊的裁きの法則」②

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「霊的裁きの法則」または、「霊的な作用反作用(原因-結果)の法則」(P148~)

それにしても、この法則が一般的に適用されているようには見えませんが、世間に知れた殺人鬼や犯罪者や大量殺戮者が、一度も裁判にかけられないまま、歳をとってから穏やかになってはいないでしょうか?

特定の原因または行為に連結した結果はすぐには顕れないので、犯罪者が生存中に罪を償うのを見ていないものには裁きが存在していないような印象を与える。
確かに一度だけの人生では、特に地上の権力の座を占める者の場合であれば、多くの犯罪行為が裁きを逃れて終わってしまう。このような場合には、他者を傷つけて「愛の法則」に違反したものは、その後の転生で自分の行為の結果と向き合うことになる。
ある統治者がどの裁判所でも、絶対に裁かれることも有罪とされることもなかったとする。だがその人生で帳尻が合わされなかった借金は、以後の転生に持ち越され、かつての死刑執行人が、明日は一見無実な犠牲者となり得るのだ。

説教でよく耳にする「義に飢え乾く人びとは幸いである、その人たちは満たされる」という一節は、地上で裁かれなかったことは、疑いなく霊的な裁きによって解決されることを意味している。
だがそれでも、この仕組みは懲らしめるためのものではなく、教えるためのものだ。いずれにせよ、悪いことをした魂は自分自身に負債を負い、前進していくためには、まず自分が与えた害を自覚して、次にそれを償うことが必要となる。

その対極には、生存中に多くの善行を積んだのに、感謝されるどころか、中傷されたり拷問されて、殺されてしまった人もいるのではないでしょうか。

「霊的裁きの法則」のコインの裏面も見なければいけない。
「愛の法則」に従って行動しても同輩から感謝されずに、その善行の対価として無理解、拒絶、暴力、拷問や死を受け取った者たちは、人間の独善的な法律に縛られない真の世である霊界で、行為の成果が報われるのだと確信すべきである。
これが、イエスの言葉の「心の貧しい・・・謙虚であるという意味だ・・・人びとは幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人びとは、幸いである。その人たちは慰められる」が意味するところだ。

なぜ、作用と反作用、つまり行為とその結果との間に、時間のズレがなければならないのですか?行為と反動が連続したほうが、もっと公正ではないですか?

反作用は行為の瞬間に起動するが、直ちに効果を発揮しない。行為が「魂の法則」に賛同するものなら「霊的な褒美」を受け取り、反するのもなら「霊的な負債」を負うと言えるが、その「収穫」は、魂が自分を試す期間が終わるまで、つまり人生が終わるまで延期される。それは、試験の前に、完全に終了するまでは成績を知ることができず、また、終えた問題を先生が採点し終わらなくても次に進んでいくのと同じだ。
請け負い仕事では、途中ではなく、終了した時点で報酬を受け取るように、「魂の法則」に即した行為の場合も直ちにではないが、いつかは霊界で妥当な代償を授かる。この「霊的報酬」は、最終的に魂が肉体を離脱した時点で、もっと愛に満ちた霊が居住する高い次元まで昇って行くことを可能とする。

霊的な負債の場合には、償い自体は魂自身の意思で自発的に損害を修復しようと決意するまで待たれるが、それは必然的に、魂が自己の言動を自覚したことを意味する。「自由意志の法則」により、償いを強いてはならない。いつその状況に立ち向かうのかを決めるのは、魂自身である。しかし霊的に進歩したいのであれば、遅かれ早かれそれに立ち向かい、犯した過ちを償わなければならない。罪の償いがされない限り、新たな試練には立ち向かえないのだ。
人生が終了すると、「愛の法則」に反した行為の重みで、似通った性質の魂が住むアストラル界の低層レベルに留まることになる。「愛の法則」と調和できずにお互いに傷つけ合うレベルなので、かなり不幸で苦悩に満ちた生活となるが、ここで更生の決断が待たれる。

魂は、他者に与えた害を、どのように自覚できるようになるのでしょうか?

魂は、肉体の死後のどこかの時点で、最後の転生中に起こったもっとも道徳的な部分に関わる事件を徹底的に振り返させられる。魂は、この人生回顧の間に、それらの経験一つ一つにおいて、その時の自分の気持ちのみならず、自分の行為に影響を受けた他の人たちの感情や情動も感じ取り、その人たちの喜びや不快を自分のことのように感じるのだ。
<③に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳






2017年10月13日追記
ボランティアで朗読し、Youtubeにアップしてくれた方が!
9分08秒から14分44秒までが、この記事の部分の朗読となります。