「愛の法則」から 虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑧

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑧ (P213~)

これまでの説明を伺って、もっとずっとたくさんの疑問が湧いてしまったので、それを明らかにしていただければと思うのですが。特に、情動と感情、エゴの様々な具体形態(虚栄心、自尊心、自負心)に関するものです。それらをもう少し知りたいです。

遠慮なく質問してごらん。

以前、感情と思考とは起源が異なり、エゴは頭脳から生じると言われましたが、考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか。

とんでもない。言いたかったことは、感じることと考えることとの区別ができるようになる必要があるということだ。君たちを混同させるような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。
感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。自分の想いとの調和がとれれば、思考は、その感情を愛の行動へと変容させるための貴重な道具となる。
君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。感情に基づかない思考は、エゴを増徴させる。愛における進化とは、エゴではなく感情の力で、思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。

お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか。

もちろんだ。とっても好きな人にあったと想像してごらん。君は男性で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。
その人に対する愛情から君は喜び、ハグしてどれだけ好きだか表現したい衝動に駆られる。しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にいて、彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、後で批判され中傷されることになるだろうことも知っていたとする。この不都合のせいで、君は気を変えて感情を抑えこむので、愛する人に出会っても人にどう言われるかを恐れて、そっけない素振りで礼儀正しく握手するだけなのだ。
この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。つまり、最初の感情は喜びえあったのに、頭で自制した後に冷淡に振る舞ってしまい、感情を押し殺してしまったのだ。

でも、その人を好きなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてしまうかもしれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざるを得ないと思います。批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待って、気持ちを表せばいいと思います。

確かに、慎重は美徳だ。多くの場合、人の意見は理解も尊重もされないので、他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。だが、恐れに慎重という衣をきせないように注意しないといけない。
慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもしれないが、感情を押し殺すことはない。だが、恐れはそうする。人は恐れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、恐れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑えこんでしまう。他者の反応を恐れるあまり、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧が始まるのだ。

頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか?

一部はエゴ自体から発生し、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たちの惑星での教育は、感情を強く抑圧するものなのだ。
長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきた。子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、あるがままの姿を表現しようと、心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、感情や喜びや自発性を抑圧され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代わりに執着を体験させられてきたのだ。
何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何だ?良い子というのは、言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規制や便宜の奴隷であるということだ。
子どもがどうしてそうしなければならないのかわからず、その理由を尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあろうか?そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはいけない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。
親や大人に聞かずにしたことは、すべて悪いことになる。笑うことも、泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、言う通りにしなさい。お前のためだ」と言うのだ。

非常に宗教的な社会では、すべてが罪悪だ。いかなる喜びの表現や、ハグやキスといった愛情表現も罪となる。それらすべてに、罪深く、卑猥で、暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると罪悪感を覚えなくてはんらない。犠牲者を刑吏(けいり)に、無実な者を罪人に変えてしまう。
そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、感情を殺すことだという結論に達してしまう。本来の子どもとは似ても似つかない、他者が求める自己像を世間に示すことを覚える。そして、社会の規制はあまりにも厳しく、演技をし続けなければいけないので、大人になると、見せかけてきた自分を本物だと思いこんでしまうのだ。
大半の子どもが大人になった時には、あるがままに愛してもらうことなどはく、ほんの少し愛してもらうためにも必ずいいことをする必要がある、という結論に無意識に達してしまっている。
つまり、支配的、条件的、強制的、利己的で偽りの愛である執着を信じ、無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育してしまったのだ。その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸福をほんの少しでも経験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないために、エゴとその忌むべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。
君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられていた者は少ない。「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教えがないのだろう?
君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもたちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに天国へと変わるだろう。

感情を熟知していても、つまり愛の能力があっても、それを抑圧してしまって、感情のない冷淡な人として社会に出る人もいる、と言いたいのですか?

そういうことだ。多くの人は、苦しむものが怖く、愛情不足だという弱点を見抜かれたくないために気難しい。そしてそのため、鎧兜(よろいかぶと)の中世の騎士のように、マントや鎧で自分を隠す。
こうして、苦しまないようにすることで、苦しむことになる。くるしむのは、感情を避けて通ろうとするからだ。愛し愛され、しあわせになるためには、それは欠かせないのだ。

孤独を恐れる人が大勢いるのは、なぜだと思うかね?それは、本当のところは自分自身と向き合うのが怖く、「自分は空っぽだ」という大きな真実を発見するのが怖いからだ。
そのため自分から逃避して、多くの頭痛の種をもたらす物質的あるいは精神的な対象へと逃げ込んだり、頭を過度に刺激する極楽を求めて、真の回答には絶対にたどり着けない言い訳とするのだ。そうして、感情の声を黙らせるほど、頭の声を大きくするのだ。
しかし、良心の囁きを永久に黙らせることは不可能なので、頭脳が油断したり、ハプニングやトラウマとなる事件が原因で考えられなくなると、内なる声は再びこう叫びだすのだ。「私は空っぽだ。感じられないから虚しいのだ。見せかけの自分とは違うから虚しいのだ。外見とうわべだけになってしまった。自分自身であることを放棄し、愛し愛されたい存在であることを諦めてしまったので、不幸なのだ」と。
現実を直視するのは、痛みを伴うほど、衝撃的なこともある。このときに多くの者は、事実を覆い隠してしまえば苦しみが軽減し、何もかも元の通りになるだろうと間違った思い込みをして、愛情の欲求を放棄してしまったことをなんとか正当化しようとするのだ。
「人生は私にこんなに辛く当たった!」、「なんて悪い人たちと一緒になったんだろう!」、「両親すら私を愛してくれなかった!」、「なんで私がもっといい人にならないといけないんだ?」などと言うことになる。
そして、憤りや恨み、不信や悲しみ、孤独が彼らを内部から蝕む。
子どもができると、子は弱くなすがままになるので、「人生とはどういうものか教えてやろう」となどと理由をつけながら、自分のフラストレーションの復讐をするのだ。この時に、再び愛のない方向へネジを締め付けてしまう。

でも、人生でひどく苦しんだ人が、何の努力の甲斐もない、という結論に達してしまうのは、よく理解できることだと思います。

確かに人生はとても厳しいものなので、心の想いを優先しようとする者は、他者から理解されないがために多くの障害に遭い苦しむだろう。しかしそれは状況による外部からの苦痛で、結果的にその人が感じたり愛せるようになるとするなら、その価値があるものだ。
だが感情を避けて通ろうとして苦しむのは、自分自身が生み出す内部の苦悩で、感情や愛を進歩させることには役立たない。まったくその反対なのだ。
人は苦痛に浸りきってしまうと、他者にも痛みを味わわせてもいいように感じてしまうし、自分が与える損害を考えてみようともしないので、多くの苦悩と苦痛を生み出してしまうことがある。