「愛の法則」から 虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑨

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑨ (P218~)

でも、人は苦しみに慣れてしまうと、苦痛が全く普通のことに思えるのです。多くの人が「苦しみを乗り越えられるだろうか、愛することができるのだろうか」と自問するのではないですか?

しかし私は、「私が経験した苦しみはすべて、もう沢山だ。自分にも他者にも、もう結構。少しは人生がわかったよ。自分がされて苦しんだことは、他の人にはしないようにする。父母に求めても貰えなかった愛のすべてを、私は、自分の子どもや近親者や人生に現れるすべての人に与えるぞ」と言う人はいないものかと思うのだ。
変わろうという意志と感情の力によってのみ、人生というものは逆転し、憎しみの連鎖を断ち切れる。こうして、固く締められていたネジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは一つまた一つと反転して行き、最後には完全に引き抜かれる。
苦痛を感じ愛のない状態にいるすべてが、このような決断をしたとしたら、世界は一世代で変わるだろう。両親から愛された子どもは、保身の鎧を被らない世代であり、愛されて育てられたので、愛することを恐れない世代となる。
前に言った通り、愛する能力は、魂が生まれ持った資質である。そのため、誰もにその能力がある。それを発見し、発展させることだけが必要だ。そうだと信じれば、そうなる。そしてすでに言ったように、これは、他者を愛することだけではない。つまり自分自身を愛することから手がけねばならない。

でも、自分を愛するとはどういうことですか??

もう説明したよ。自分自身を愛するというのは、自分の愛情の欲求と感情とを認め、人生の牽引力となるように、それらを発展させることだ。

それなら、自分自身を愛することはいいことなのですね。

もちろんだとも。自己を尊重することは、幸せになるために欠かせないことだ。
もう一度繰り返そう。人が放棄しなくてはならないのはエゴであって、愛ではない。自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛するために必要となる力と意志を引き出すのかね?
愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。このため、愛さずに生きている多くの人たちが死んだら苦悩が終わるのではないかという幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。そうして自分たち自身で、君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始する。多くの病気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。
自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ腫などの免疫系の病気や自己免疫疾患になりやすい。自己免疫疾患というものは、根深い罪悪感にも関係している。その人たちは非常に気落ちしているため、他者に捧げるのは難しい。まず初めに、自分を尊重できるようにならねばならない。

では、自分自身を愛するには、どのような手順を踏んだらいいですか?

最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、それらが発露するがままに委ねて、自覚を高めていくことだ。つまり、それらを抑圧するのをやめ、代わりに発展させることで、人生の原動力へと変えるのだ。
次に、行動する際には、自分の想いに従って、思考によらないこと。教えられたことでも、それが自分の心に反するならば、正しくないのだ。あまたの理由に左右されてしまう思考に、君たちの感情が抹殺されるのを甘んじてはならない。

多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。

価値があることは請け合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛だけが与えてくれる内面の真の幸福を少しずつ体験し始めるからだ。
また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならない。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。
最初は、ネジが固く締められているので、一番難しい。ネジが緩み始めるまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で!)満たし、それまで味わったことがなかった気分にしてくれるので、継続する力を与えられるだろう。

では、他者を愛するにはどうしたらよいのでしょう?

他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持った同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。
炎天下を水も飲めずに長く歩いていて、自分がのどが渇いているとしたら、これと同じ状況にいる人は誰でもやはり水を欲している、と思いつかないだろうか?
水と同じことが愛についても言えるのだ。愛を奪われると、我々は全員苦しむ。愛が与えられると皆、元気づけられる。それゆえ、心が乾いている人を見かけたら、その人に愛の水を飲ませてあげなさい。我々が愛に飢(かつ)えていた時に、その水を飲ませてくれた人がいたように。

でも、他者にいいことをしようと思っても、感謝されなかったり、軽蔑や嘲笑されたとしたらどうしますか?

誰かに危害を加えられたら、その人が愛において進化不足なのだと理解して、その状況を自分自身を改善させる機会として利用したほうがよい。
我々の中で何か否定的なものが目覚めたとしたら、それは我々自身にまだその要素があるということで、排除しようと努力しなければならない。
前に言ったが、愛を無条件で与えられるようにならない限り、課題を終了したと見なすべきでない。感謝されないことを容認できない人は、まだ与えるものの見返りを何か期待していることになるので、ゴールに行き着いてはいないのだ。

それなら人は、「なんてこった。自分が変わろうとしても他の人たちが変わらないなら、どんな目に遭わされるだろう。そんな甲斐があるだろうか」と思うのではないですか?

人に叩かれるのはかわすことができるのだから、自分自身に叩かれるよりもいいのではないか?愛がない生き方をする者は、自分自身を叩いているのであり、愛そうとしてくれる人を近寄らせないのだ。

お話はもっともですが、まだ疑問が湧いてきます。

自由に話してごらん。

先ほど、感情を押し殺さずに表現することの重要性を強調されましたね。でもその一方で、他者の愛情の欲求や感情を配慮することも大切だとお話されています。そこで質問なのですが、憎しみや憤り、怒りや恨みなどの否定的な感情は、それらを表現すると他者を傷つけることになりませんか?他者を傷つけずに感情を表現するにはどうしたらいいですか。両方を尊重するのは、難しいのでゃないですか?

君の焦点の当て方では、確かに矛盾してしまう。
全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を明確にする必要があろう。
前に、感情に委ねなければならないと話した時は、愛から生まれる感情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。区別できるように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。
エゴから生まれるもの、または愛とエゴの葛藤から生じるものは、否定的な感情で「エゴ的感情」と呼べるものであり、違う方法で扱う必要がある。(それは後で話そう。)「エゴ的感情」の意のままに行動するのは、他者に、多大な弊害を与えるので、確かに避けるべきだ。
どちらの場合にせよ、感情を抑圧してもろくな事がない。自分の内部を傷つけるだけだ。