エゴ的感情(強欲-執着)①

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「愛の法則」から、エゴ的感情(強欲-執着)① (P224~)

エゴ的感情についてお話して下さいますか?

「エゴ的感情」はエゴが具現したものなので、虚栄心や自尊心や自負心について話した時に、その幾つかは扱っただろう。だが、執着心のように複雑で理解が混乱するものを特にもっと深く掘り下げて、今からそれを見てみよう。

次が最も重要なものだ。

A 強欲・貪欲・好色・憎悪・攻撃性・羨望
B 執着・独占・嫉妬・怒り・恨み・無力感・情欲・罪悪感・恐れ・悲しみ

これらは七つの大罪を思い出させますが、関係はありますか?

確かにこれらに翻弄されれば、尊重されるべき「愛の法則」や「自由意志の法則」に反する数多くの罪を犯すことになるだろうが、これらは罪ではなくエゴの顕現形態なのだ。

どうして二つのグループに分けたのですか?

最初のものは、より原始的なエゴの形態だ。
二つ目もエゴが顕現したものだが、感情というものを言わずもがなに誤解しているという要素が付加されている。

より正確なイメージが持てるよう、「エゴ的感情」の一つ一つが何から成り立っているのか定義してくださいますか?

よろしい。強欲と執着から始めよう。執着は強欲から発展した形なので、まとめて分析するとしよう。

●強欲-執着

強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。
欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにもかかわらず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は霊的な強欲へと変化する。
霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人たち、たとえば子どもやパートナーなどと愛情を分かち合うのが難しい。
執着に苦しむものは、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを強要する。
多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛するがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいる。
魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようになる。

愛と執着との違いを説明いただけませんか?

人が愛する場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。
執着を患う場合は、愛する人のためになることよりも、エゴを満たすことを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたいことを強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。
本当に愛するものは、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当の愛、真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減るわけではない。しかし執着は、そうだと思い込ませる。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪われたと思わせるのだ。
執着がある者は、愛情を要求し、強制し強要する。自分がすることの見返りをいつも求める。要求して受け取ることばかりを考え、与えるときには利益と引き換えて、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。
真実の愛を感じるものは、無条件に与え、感情を束縛しない。強制もせず強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

違いが明らかになる例があればいいのですが。

いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。
一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。もう一人は単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。
最初の人は、「私はなんて鳥たちをあいしているんだろう。野生であれば得られない快適さを教授できるように、鳥たちには多額を費やしている!でも直ぐに死んでしまう!いつも病気で、薬や獣医に金を使っても早死にしてしまう。それがひどく辛い!どうしたらいいだろう?」と言う。
二人目は、「私が世話する鳥たちは、私のものではない。かごに閉じこめてはいないし、自然の中で生きている。鳥が私と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出られないためではなく、そうしたいからなので、私は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうんだ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、生き続けるよ」と言う。
最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」と答える。
二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、隷属した生活から離れたいからだよ。私の鳥たちは、好きな時に行ったり来たりできると知っているから、逃げたりしないよ。その反対に、私が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、私の上に止まるよ」と応じる。
一人目は「それが私の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。
二人目は「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのさ。鳥は自由に飛びたいんだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」と返答する。

愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか

鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだよ。

執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、例を示していただけますか?

子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところで勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、自分のそばに引き留めようとする母親には執着がある。執着のある母親は、子どもといたいという欲求を押し通そうとし、独立して自分の人生を歩みたいという希望を尊重しようとしない。そして、それが叶わないと感情的に傷つけられた気がして、「子どもは私を愛していない」などの発言に至り、子どもをそばに置こうとするあまり、彼らに罪悪感を抱かせるように仕向ける。
「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求して、そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。
恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきとか、つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。
この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じこめておく監獄や刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。鳥をかごに閉じこめていた人のように、執着で苦しむ者は、生きることも生かすこともできない。

<次に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳






「魂の法則」「愛の法則」の著者の講演会


2018年11月29日(10.22)追記

その他、参考のために・・・
鎖につながれた象