エゴ的感情(悲しみ・絶望・悔恨・自暴自棄・諦め)

















「愛の法則」から、エゴ的感情(悲しみ・絶望・悔恨・自暴自棄・諦め)(P246~)

悲しみは、士気の喪失と低下という情動的な状態だ。
悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと強い人の場合にそうなるのであり、エゴに由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。
実際、無力感や罪悪感、場合によっては憤りとも自棄も、本当は攻撃性と悲しみの入り混じったものだ。
悲しみは、自分が求める成果が得られなかったり、結果が期待したものと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。
悲しみにはいろいろな形態があり、それぞれに特色がある。
悔恨は恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはならないが、とても深く内面に根をはっているので、超えるのが難しく、悲しみによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する動機づけや生きがいがないというのが特徴である。絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常認めたくないような状況から生まれる。
自暴自棄は、強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、致命的な行為に及ぶことがある。

悲しみがエゴの感情だと思われているのは、予想外でした。

ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態だ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実になってしまうからだ。

悲しい時に、誰かに悪いことをするとでも言うのでしょうか?

悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす人たちにも容易にその状態がうつってしまう。
悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中でやめてしまう人は大勢いる。そういう人たちは、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。

悲しみはどう超えたらいいのでしょう?

攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるための処方箋を、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。
それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。
我々が直面する逆境の多くは、愛の学習とエゴの克服という過程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解すること。そしてその他のものは、他者への不寛容や頑固さ、無理解などで、我々自身が招いたものだ。
時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があることを理解すること。
誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解する。
自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分をあるがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

あなたの処方箋は諦めを勧めているようですが。

とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。
もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連するエゴの一形態だ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方だ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。
理解は、生きる希望と喜びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とするからだ。

諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか?

例を挙げれば、死に対する態度だ。
君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、この懸念を直視しようとしない。
この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて日々の雑事に没頭しているに過ぎない。理解しようとはせず、ただ避けているだけだ。
そうするうちに、愛する人が突然死んで、驚愕することになる。この状況は、悲しみや悔恨、憤怒や無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しんでいる。
死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、遅かれ早かれまた一緒になれると理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるようにと、もっと頑張って生きようとする。
進化した世界では、人が心でもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。