人間関係と「愛の法則」②

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「愛の法則」から、人間関係と「愛の法則」②(p276~)

どちらにせよ、憎み合っている人たちを同じ家族に入れるのは、過激な療法に思えますよ。それでは、危険な囚人をまとめて同じ独房に入れるようなものではないですか?しまいにはやり合いませんか?
こんな状況から愛が生まれるとは思えません。

家族の全員がお互いに仲が悪いとは言ってはいない。たとえば、父親と息子の間で衝突が起こるとか、兄弟間の仲が悪くても、他の家族とは問題がないケースだ。通常、このような家族には、より進化した魂が転生し、愛に満ちた行いとはどのようなものであるべきかの手本を示す。似たような欠点のある魂が一緒に転生するのは、まさに一方が他方の鏡となるためであり、自分と似た人との共存体験から学ぶためだ。

この経験から学ぶべきことはなんですか?

一番大切なことは、我々は皆兄弟だと知ること。これは、まさに文字通りだ。前世で最も憎むべき人が、次の転生では君の兄弟となり得るのだ。
一つはっきりさせよう。一部の人だけを愛してその他を憎んでいては、進化はできない。憎しみを愛に変えない限り、前進できないのだ。だから、憎しみによってしてしまったことを償う必要があるのだが、一番苦手で最も借りのある人に償いをするのが理想的なのではなかろうか?
また、エゴが顕現したものが欠点だが、我々と同じ欠点を持つ他者のエゴを認識したり、それを身をもって体験してみることも有益である。
我々は、隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない傾向にある。要は我々は、特に嫌いな人の欠点には神経を尖らせているのに、それと似ていることが多い自分自身のものは見ようとしないのだ。
他者の我がままのために実際に苦しんでみれば、欠点がどう響くのかを体験できるので、欠点を自覚でき、それをなくすべきだと考えるだろう。

人間関係のテーマに戻りますが、どういう理由で二人の人がカップルになるのでしょう?

愛によって、霊的な進化の必要性によって、あるいは執着によって。
最初の二つの理由は、霊的な判断に従ったもので、転生以前に取り決められる。
最後のものは、転生してしまってから本人が選んだことで、霊的というより「現世的な」理由によって決められる場合が多く、転生以前に交わした魂の約束が何度も変更される。

これらの結びつきの種類による違いを説明いただけますか?

最初のものは、愛情の結びつきと魂の類似性によるものだ。
霊的進化のための結びつきは、互いの学習上の必要性によるもので、通常課題が残っている魂の間や、特定の欠点や美徳に共に取り組むことで霊的に向上し得る魂の間で見られる。
三つ目の執着による場合は、肉体または性的な魅力、二人の知的あるいは物的な目標が似ていること、物質的な必要性、愛情の欲求、それに一緒になる者同士の便宜や義務などによって結びつく。

子どもたちの転生が、霊界で決められるということは理解できるのですが、二人がカップルになるというような決定は、生まれ変わった後に、いつも物質界でなされるのではないでしょうか?

確かに最終決定は転生してからなされるが、見ず知らずの二人が、何十億という人の中で出会うというのは、どれほどの確率だろうか?偶然であろうか?その環境が整うには、つまり、特定の人たちが出会って知り合う機会ができるには無数の状況が重なる必要があり、実はこれが霊界で調整されていることなのだ。
それに、自分の人生において、ある人が重要な人になると予感できるのは、前世の記憶からの感覚による。

お話から推測すると、各転生で違うパートナーになるかもしれないのですね。

もちろんそうだ。君たちの進化レベルの世界ではそれが普通であるし、おまけに多くの場合、霊性進化のために変える必要があったり、前世の行為の結果として変わることがある。

どういう意味ですか?

霊的に完全に似通った双子の魂(ツインソウル)の場合でも、愛よりも欠点が勝ってしまって、それを認識も修正もしたくなければ、一時的であるにせよ、別れてしまうこともある。人は、失ってから初めて大切なものに気づくことがあるからね。そうして、次生ではあまり似てはいないが、悪習を修正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。
君たちの世界では、大半の人が内面をほとんど気にかけていないので、愛によって結びつくカップルは非常に少ない。大多数は、物的または精神的な必要性や便宜、性的な魅力などによって一緒になり、魂の要請に従って結びつく者はごく一部だ。
魂がエゴの大部分を取り除くことのできた進化した世界では、もっと自分の心の声に忠実で、大半の結びつきが愛に基づくものだ。それは、類似する魂同士が相手を見間違えることがないためであり、物的な欲望がどれほど満たされようと、相互の愛情ほど幸せを感じさせてくれるものはない、と知っているからだ。その世界では、私欲によって相手を選ぶ男女は皆無だし、双子の魂でないカップルには滅多にお目にかかれない。

「人は、神が結び合わせたものを引き離してはならない」という有名な言葉があるので、世間では、ただ一人だけを伴侶にすることが最も霊的だと思われてきました。それなのに、あなたは、多くの相手を持つのが「普通」で、霊的にも有益となり得るといわれました。矛盾するのではありませんか?

愛の絆と結婚の絆とは別物なのだ。
ある程度の時間が経つまでは夫婦にははっきりわからないものの、地上の90%の結婚に真の愛は存在していない。だが、一枚の紙に署名してしまったために、どうやら人は、考えを変える権利がないようだ。
自分たちの関係を感情に基づいて選ぶようになれば、進化した世界のように君たちの関係も永続的なものとなろう。しかし、その世界で二人を結びつけているものは、義務ではなく、愛情なのだと知らねばならない。
人には誰にも、相手を選ぶ自由と同じく、自分で決意するなら別れる自由があるし、自己の決定については誰にも言い訳をする必要がない。
はっきりさせておきたいのは、二人を結びつけるものは相互の愛だが、それぞれが個人の自由を完全に保有しているということだ。司祭の前であろうと宗教遺物と花で飾り立てられた祭壇の前であろうと、サイン入りの契約書では結びつかないのだ。そのようにして二人を結びつけているものは神ではなく、君たちが作りあげた法律や習慣によって、君たち自身がそうしているのに過ぎないのだ。
神が本当に与えてくれたものは、愛する能力と、愛を体験して幸せになるための双子の魂であり、自らの運命を決定できる自由だ。
だが、君たちの世界では、愛情で結びつくわずかな夫婦も、まだそれぞれのエゴを克服する必要がある。多くの場合にエゴが勝ってしまい、感情を押さえつけるからだ。
それゆえ、「人は神が結び合わせたものを引き離してはならない」という常套句は、真の幸福を体験したい者の助言となり得る、「愛が結び合わせたものを、エゴが引き離してはならない」というより適切な文言に置き換えられるだろう。

それでは、霊的な観点からは、離婚は肯定できることなのですか?キリスト教の大半が離婚に反対なので、いつも良くないことだと思っていました。

宗教と霊性は異なるものだ。
誰と一緒にいたいか、またはいたくないかを選ぶ自由があるのは、いつも良いことだ。自由意志を行使できるので、肯定的なことだ。霊界は、いつも自由意志の味方だよ。
ただ紙に署名したというだけで、なんの愛情もない相手といることを強制したり、好きであっても何らかの理由で一緒に暮らすことが不可能な人を強要することは、自由意志の侵害となる。
君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄することだとまだ思い込んでいるが、そうではない。たとえば君たちは、結婚したり同棲すれば、絶対果たすべき義務であるかのように、相手と性関係を持たねばならないと思っているが、それは違う。人は、嫌だったり望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、性関係を義務づけられたりはしない。
また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務もない。さらに、どんな状況で一緒になったにせよ、自分にない気持ちを感じなければならない義務もない。
そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要はない。感情とは強制されるものではなく、自発的湧き出なければならないからだ。霊的な観点からは、すべての上に自由意志があり、他のあらゆることに勝るのだ。
執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。愛にとっての執着とは、鳥のとっての鳥かごだ。

性関係を持つ人たちが、愛し合っているからではなく、単に愉しいひと時を過ごしたいのであれば、何らかの霊的な法則に背くことになりますか?

いや、その人たちが自由にそう選択したのであれば、全く問題とならない。
ただ魂は、進化すると性関係以上のものを期待し、ただの肉体関係では満ち足りなく虚無感を覚えるものだ。しかも、お互いに性的に惹かれ合っても、魂の類似性がなく内面の気持ちがなければ、単に性関係だけの結びつきでは、しまいには飽きてしまう。そのため、長続きしないことが多い。続いたとしても、二人の絆はとても弱いものなので、不安定な関係となり、いざこざが絶えないことだろう。
魂が成長していくにつれ、性関係は、本能という生物的な欲求から気持ちを表現する手段へと変わる。原始人の性は、基本的に本能的なものであり、好きでもない人と性交しても、まだ感情がほとんど発達していなかったために、空虚感を覚えることもなかった筈だ。
愛の能力の高い進化した魂ならば、本能を満足させるだけの性関係には、大きな虚無感を覚えるだろう。進化した魂にとっての性的関係は、親密な愛情表現なのだ。
性関係を持つ魂が、霊的に似ていて互いに愛し合っている場合は、その深い愛情が、性関係にも反映される。肉体の交歓と共に、お互いのエネルギーが交流し、活力を与え満たし合うのだが、これはアストラル体とメンタル体と霊体が交わることによる。
それに反して、完全に性的な関係、つまり性行為に及ぶ男女が双方共に愛情を感じていない場合は、肉体が満足しても、アストラル体、メンタル体、霊体などの精妙な体の交わりに欠ける。その結果、虚無感と不満感がもたらされるだろう。
進歩した世界では、一緒になろうと魂を奮い立たせるものは、純粋に内面に感じる愛だけで、その他の理由で二人が結びつくことは極めて稀である。また、そこでは洞察力が非常に発達しているので、地球でよくあるケースのように、外見に惑わされたせいで思っていた通りの人と違って、後で騙されたり失望したりすることがない。

性の問題をどう解決できますか?

君たちの性の問題は、その大半が、ほとんどなんの愛情も感じない人と性関係を持つということに由来している。君たちは、まだ肉体の部分しか見ておらず、性の喜びの最たるものは、肉体的に非常に魅力的な人と関係を持つことだと思いこんでいる。
大多数の人は感情面を認識しようとはせず、霊的に似ている愛する人と一緒にならない。そのため、愛情がないことから問題が生じてしまう。内面が満たされたと感じられないことが問題なのだ。愛のない性関係を持つことで一番苦しむのは、進化した魂だ。
愛情がないことが問題なのだと気づき、気持ちに従って行動すべきだと認める代わりに、また同じように愛のない別の相手との体験を求め続けたり、セックスを魅力的にしようといろいろな要素を加えてみるが、相変わらず虚しいままだ。こうして、感情でしか埋められないものを、物質で埋めようとするので、悪循環に陥ってしまう。

それなら、映画で見る関係のように、ロマンチックな愛は、僕たちの世界には不足しているのですか?

この場合は男女の愛のことだが、問題は、愛というものの君たちの概念が、霊的な視点からの愛から歪められていることだ。
君たちが誤って「情熱的」な愛とか「ロマンチック」な愛と呼ぶ、強い肉体的な魅力からの関係は少なくはない。それは、花火の光のようで、一瞬は強烈だが、その後は完全に消えてしまう。
そのため、物的な調味料で感覚を過剰刺激(高価なレストランでのディナー、豪華なプレゼント、五つ星ホテルのスィートルームでの一夜、楽園のような島でのバカンス)して、なんとか継続させようと無駄な努力をする。そしてこれらすべてを、君たちはロマンチックな愛と呼ぶが、実際にはひと度性欲が満たされるやだんだんと薄れていく、強い性的魅力を指しているに過ぎない。
情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、誰かを所有したいという満たされる欲求であり、我々が執着と呼ぶところのエゴが顕現したものだ。人は物ではないので所有できないし、本人以外の誰にも属さない。愛することと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはならない。
はっきりさせておこう。誰かを愛するように強いることはできない。愛が自由でないならは、それは愛ではないのだ。
感情は強要することができない。感情は提言や操作、強要にも命令にも従わない。愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛することだ。そうすれば、いつか、「原因-結果の法則」が与えたものをもたらすだろう。