記憶の底に押し殺していた戦争体験。すべてを話しましょう

先日、16日、facebookでシェアされていて、私もシェアした記事です。

http://gendai.ismedia.jp/mwimgs/d/7/600/img_d77cc38a35803c091cbf27fff76cf78091165.jpg「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地氏

 戦争は、私が少女であることを許さなかった

幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。
そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。
栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。
そんな環境で生きるなかで、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女であることさえ許さなかったのです。
1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』などの著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝氏(84歳)が、満州での戦中体験をつづった『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(集英社新書)を上梓した。困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連兵に犯されそうになったことをはじめとする壮絶な体験がつづられている。
「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にもかかわってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かしたことはなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。
私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。そのことが恥ずかしくて、いままでずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。
いま、そのことを強く悔やんでいます。
私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私たちの世代が抽象的な言葉、たとえば「戦争はつらかった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。
抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから、私たちはなるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。たとえそれが、つらい記憶を掘り起こす苦しい作業であっても――。

GHQに捕まるという恐怖

私たちは、戦争体験を語らなかったのではありません。「語れなかった」のです。
いまの人たちには想像もつかないでしょうけど、戦後まもなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって、沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。
ひとつ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に、小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。
それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他のみんなも同じ気持ちだったと思います。ところが休み時間になっても、誰もそのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。
それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶がうまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。
しかし語り継がなかった結果、今日のような状況をつくってしまった。私の身内に、14歳になる子がいます。彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳のころの話をするしかないと思いました。あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。それをいま、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。この本は、いま14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。

神風なんか吹かなかった

満州にいたころ、母は日本が勝つということに懐疑的でしたが、そんな母のことを私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」、でした。「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見たことなんかないのに。それでも新聞を読み込んで、「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。
ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。
……私はこの本の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。いままで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいたことです。

「この一家を皆殺しにする!」

終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校たちを追い払いましたが、しばらくするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくでその扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男たちを必死に制止したのは、私の母でした。
母の命がけの抵抗によって、今度こそ男たちは去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったんです。
このことについては、母親ともひと言も話したことはありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。
それから四半世紀近くたった72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです。
いくら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。いま、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ、残りの人生をかけて、自分の体験をつづらなければ、語っていかなければ、と思っています。遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。 
澤地久枝 ノンフィクション作家。1930年東京生まれ。49年中央公論社に入社。63年、「婦人公論」編集部次長を最後に退社。86年、菊池寛賞、08年朝日賞を受賞
<転載終了>

10日さかのぼった6日「力づくはエゴ・・・」を書きました。
あの日以来、私は、心の奥底深くにしまい込んで蓋をしていた
辛い思い出と対峙していました。

そうしたら、戦争の辛い思い出を語る澤地さんのこの記事に
出会ったんです。

他者を蹂躙することは、つまり、自由意志を奪い、縛ること。
どんな形であれ、やってはいけない。
子供のころから、私は、コントロールされることが嫌いでした。
両親の元にいる間は、表面的にはいい子だったので、誰も私の
そういう反骨精神というか、自由を求める心を理解する人は
いませんでした。
というか、私のそういう気持ちを理解できる人は存在しない
だろう、たとえ、両親であっても・・・って感じですっかり
あきらめていました。(子供なのに生意気ですよね!)

反発する気持ちを、あまり表に出さず、優等生を演じてました。
そうすることが、家族や周囲と波風立たせずに上手くやっていく
ために必要だと感じていたからです。

私は戦争経験者ではありません。

でも、母は小学校1年生のとき、満州で終戦で、引き揚げを
経験しています。
中国残留孤児が日本に家族を探しに来ていたとき、ニュースを
見るたびに「家族そろって、日本に戻ってこれたのは奇跡だった。
一緒に列車に乗っていた人が、子供を中国人に預けたという話を
いっぱい聞いた。私たち兄弟(私のおじおば)も、中国残留孤児に
なる可能性はいつもあった。」
と話していたのを覚えています。

でも、母も父も、戦争中の話とか、あまり詳しくはしてくれたことが
ありません。
祖父母からも、戦争の話は聞いたことがありません。
澤地さんが書いてらっしゃるように、あまりにも過酷な記憶で
奥底深くに仕舞い込んでしまっていて、話せなかったのかも。。。

戦後71年、戦争経験者が高齢となっています。
このまま、何も語らずに死ぬわけにはいかない、戦争の悲惨さ、
理不尽さを伝えなくては、という使命感で、語り始めている方々が
この数年増えてきています。

「魂の法則」の中でも、戦争をするということは、人殺しを肯定
すること、地球という星の兄弟同士が戦うなんて、ナンセンス、と
いうようなことが書いてあります。

戦争は悲しみや苦しみ、恨みや怒りを生むだけです。
私たちは、もう、そういう生き方はしたくないのです。
戦争で亡くなった方々のためにも、もう繰り返してはいけないんです。

一人一人が、今の幸せを噛み締めて生きつづけていたら
戦争なんて起こらないと信じています。

自分自身に満足できていないから、自分自身が愛が足りないと
感じているから、他者から奪おうとする、そういう人が多いと
戦争になってしまうんです。
だから、自分自身を愛して、満ち足りた喜びを感じましょう。
一人が変われば、全体が変わります。
私たち一人一人にはそういうすごい力(パワー)があるんです♪

31/8/2016
7.30