愛の法則から見た子どもとの関係①

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「愛の法則から見た子どもとの関係」①(P121~)

人間が霊的にもっと速く進歩できるように、社会レベルで適用できる方法がありますか?

ああ、子どもたちを愛し、肉体的にも精神的にも傷つけないように気をつけることだ。絶対に彼らに、屈辱的な思いをさせてはならない。霊的な観点からは、幼児への虐待は、最も重い犯罪の一つであると忠告しておこう。

子どもたちが自由でいられるようにしてあげなさい。思い思いの気持ちを表現でき、好きに遊べて遊びながら学べるように。

愛されて育てられる世代の子どもたちがいれば、君たちの世界は急速に変化するだろう。愛には世の中を変える力があるのだ。君たちには世界を変えられなくても、愛を知ることができた次の世代が変えてくれるだろう。

どうやって子どもたちと接すればいいのかがわかる、助言がありますか?

君たちは、子どもであったことがないのかい?彼らの身になって考えてごらん。君たちが子どもだった頃の、良いこと、悪いことを思い出してみるのだ。人からされて嫌だったことを思い出したら、それを繰り返さないようにして、良かったことは手本とすればよい。

私は肉体的な危害だけでなく、精神的な嫌がらせも問題としている。認める人はほとんどいないが、君たちの世界には、自分自身の子もさることながら、子どもたちを精神的にいじめる人たちがたくさんいるのだ。

彼らは、自分自身の問題にどっぷりと浸かったまま、子どもたちを傷つけていることに気づく感受性のかけらも持ち合わせていない。子どもは所詮子どもであり、大人と同じようには物事が理解できていないためにもっと鈍感であると考えて、何の配慮もせずに接して、自分たちのフラストレーションをぶつけている。

しかしながら、それは全く違うのだ。子どもたちは、大人よりも肉体的・感情的に敏感で傷つきやすいので、できる限り丁寧に、愛情深く扱ってあげることに重点を置くべきである。子どもたちをそのまま丸ごと受け容れ、愛してあげなさい。

条件付きで、子どもたちを愛してはならない。自分の子どもを自慢するだけに利用する人は、子どもを愛してはいないのだ。その子が他の子と比べて何かの能力に秀でていると、頭がいいと鼻を高くするくせに、能力がなければ過小評価をするので、子どもの自尊心に甚大な影響を及ぼしてしまう。

自分の子どもを本当に愛する者は、顔が可愛かろうとなかろうと、頭が良かろうが悪かろうが、積極的であろうがなかろうが、その子をあるがままに愛するものである。

子どもを教育するには体罰が必要だ、という意見の人もいます。これについてはどうでしょう?

それなら、その人たちは、仕事の出来がまずかったと上司に見なされば、時々たたかれても構わないのだろうね。

本当は、そうされたら、面白いとは思わないでしょうね。職場における暴力ということで、上司を訴えるのがふつうだと思います。

面白くないのは、たたかれるのが好きな人などいないからだ。大人をたたくことが犯罪行為となり許しがたいのであれば、ずっと力が弱く身を守ることができない子どもをたたくことが、どうして許容されるのだろうか?

自分自身に望まないことは、他者にはしてはならない。子どもという、もっとか弱く無防備の者が相手であれば、なおさらである。

親の中には、子どもが他の子をぶった時に、たった今、自分が駄目だと禁じたばかりのことと同じことで罰する---つまり、子どもをぶつのだ---者がいるが、それを目にするのは悲しいものだ。禁止されたことと同じことをする大人を見る子どもは、一体何を学ぶのだろうか? 一番強ければ、暴力で自分の規則を押しつけても構わない、ということに他ならないだろう。

絶対に子どもをぶってはならない。その子のためだとか、教育のためだとか、紀律を教えるためという言い訳を利用してたたくことは、なお、良くないことだ。

体罰を用いる物は、教育を施しているのではない。自分に教える能力がなく、子どもを扱う、こつや忍耐、優しさ、繊細さに欠くことを示しているだけである。性暴力や虐待に対して闘うのならば、幼児虐待に対しては、それ以上の力が注がれるべきだ。

それにしても、今日では幼児虐待は多くの国で法的に罰せる犯罪とされているので、虐待の証拠を示すことができれば、それをした人を処罰できるはずです。

そう、特に西洋ではね。そして、これは大きな進歩だ。

問題は、多くの場合、子ども自身が虐待を受けたという証拠を示すのが難しい点だ。虐待の証拠がそれほど明白でないことがあるからだ。

大人が虐待を受けるケースなら、自分自身で身を守ることもできるし、実際に暴力を受けたら、告発することもできよう。だが、子どもは守ってくれる大人を必要とするし、しかも家庭環境で虐待が起こる場合には、保護してくれる筈の人たちが加害者なのだから、一体誰に守ってもらえるのだろうか?

加えて、君たちの社会は依然として、軽い体罰に非常に寛容だ。自分たちがされたら嫌なのだろうが、多くの人たちが、たたいたり、ぶったり、お尻をはたいたりすることは、許容範囲内だとしている。子どもにすることを自分がされたらどう感じるだろうかと、一人ひとりがよく考えてみることだ。そうすれば、子どもたちに対してもっと心配りができるようになるだろう。

体罰を用いないのが理想的なので、それを制限するのは賛成だけど、とても反抗的な子どもがいて説明しても駄目な場合は「強硬手段」を探る必要、つまりもっと断固とした方法で対処しなければならないよ、と言う人たちもいます。これに関してどうですか?

子どもの教育を大人の言う通りにさせることだと考え、言葉や肉体的な暴力で怯えさせて、恐れによって意に従わせようとするものは、自身が無能で霊的に未熟なことを表している。愛、感受性、理解力があれば、常に別のやり方を見出すものだ。だが、それがなければ、どんな口実でも、自分の悪癖を引き出すのに好都合だとされる。

でも、幼児を虐待する大人の多くが、彼ら自身も子どもの時に虐待を受けていたというではないですか。きっと手本とすべきものがなかったのでしょう。

そういうケースでは、虐待された時に感じたことと、粗雑で屈辱的なあつきをされて受けた胸の痛みを思い出し、自分自身が嫌だったことを自分の子や他の子どもに繰り返さないように努めることだ。

幼少期に、多かれ少なかれ、肉体的もしくは精神的ないじめに遭ったことのある人は沢山いるが、それは君たちの世界のあらゆる分野で、エゴがまだ幅をきかせているからだ。実体験から学ぶことができ、苦悩の経験を覚えている人たちは、自分の子どもや幼児全般に、自分たちが味わった苦痛を回避してあげようと努めることだろう。

強硬手段に訴えずに教育するには、どんな方法がありますか?

強要しなくても子どもが自然に学ぶには、遊びを通して教えるのが良い。どんな価値観や知識でも、遊びながら教えることができるものだ。

子どもが悪いことをしたら、それが良くないことだったとわかるように、まずは一緒に話し合うべきだ。内省を手伝ってあげるには、「君がしたことと同じことを誰かにされたら、どういう気持ちかい?」という簡単な質問で十分だ。たとえば、その子が他の子をぶったとしたら、「君もぶたれるのが好きかい?」と訊いてみることが、反省を促す役に立つ。もめごとの解決には対話と内省とを優先し、自分の行為のどこが問題だったのか自覚できるように援助し、してしまったことを償える可能性を提供してあげることだ。

実のところ、君たちの世界にも、このような思想に沿おうとする新しい教育の潮流が見られるのだが、それには、今より子どもたちに目をかけてあげる必要がある。

昔とくらべて今の教育の質が低下したと考える人たちもいますが。新しい教育手法が手ぬる過ぎて、子どもたちが学ばず、先生たちを馬鹿にして、授業に集中しない、とのことですが、どう思われますか?

それは完全な間違いだ。確かに、特に厳格な人たちの中には、かつての教育を懐かしんでいる人はいる。そういう人たちは大概、勉強には血の滲むような努力が必要だと思っているのだ。

過去の教会運営の学校は、毅然とした紀律をもって教えるという評判だったので、一部の親にとても重宝されていた。だが「紀律をもって教える」こととは、実際には、怖れや脅しや体罰などで、学校生活を辛くして、生徒たちを強制的に服従させるものであった。そのため、生徒は、子どもというよりも、怯えた小さな徴兵みたいで、顔には幼児特有の自発性や感受性や喜びの微塵も見られなかった。しかも、神の名の下に、そのようなことが行われていたのだ。

だが、そういう教育では、もっと従順で言うことを訊く子どもにすることは可能であったが、それでもっと賢くできるわけではないし、より幸福にも、より自由にもさせられない。怖れが染みついて育った子は、大人になると欠けているものが多い。幼少期のトラウマを乗り越えられないと、気持ちの表現が困難になったり、自尊心が低下し、感情的な問題を抱えやすい。学校で必死に暗記させられた歴代の王様の名前をまだ覚えていられたとしてもだ。

また、昔の生徒の方が現在よりも優秀で、習熟度が高かったというのも疑わしい。以前は内容の暗記には力が注がれていたものの、論理的な思考は重視されていなかったからだ。授業内容が適切なものであったかどうかもおぼつかない。教育に向けられる資金も今よりも少なかったし、義務教育の期間も短かった。

現在の教育は、生徒の思考力と推察力を伸ばし、暗記を少なくして、論理的に考えさせようとしている。また、学習到達の比率が高く落ちこぼれが少ない国は、紀律に基づく教育モデルを採用した国ではなく、全く逆に、斬新な教育モデルを適用した国である。他の国々にくらべて、教育への人的・物的な投資が多いことが、その差である。世界で最も良い教育モデルを有するフィンランドが、いい例だ。

<転載終了>


『愛の法則~魂の法則II』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳






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