愛することを学ぶということは、エゴからの脱却を学ぶこと~「愛の法則」から 愛VSエゴ(我欲)①

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「愛の法則」から 愛VSエゴ(我欲)① (P173~)

愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか?

愛するためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でいるためには自分を知らなければならない。
他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛することから学びなさい。自分自身を愛せない者には、他者を愛することができない。

でも僕は、他者を愛するためには自分自身を放棄しなくてはならない、と理解していたのですが。

絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、エゴ(我欲)を放棄することだが、感情を放棄することではない。
君たちは、愛とエゴを混同しているので、愛についての概念が、間違ってしまっている。自分を愛するというのは、自分が他者よりも優れていると思いこみ、利己的な気まぐれを満たすことに専心することではなく、自分の愛情の欲求や感情を認めて、それを人生の原動力となるように発展させていくことだ。
だからこそ私は、真に愛するためには、自分自身を知ることが非常に重要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別できることを意味し、感情から生まれるものとエゴから生まれるものを認識できることだ。

それでは、愛と、愛でないものをどう区別するのですか?

愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動するものは、本当には愛していないのだ。
愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制して、愛するように仕向けることはできない。
愛したいと願う者は、エゴを放棄することも望まねばならない。愛とエゴは、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない、愛することを学ぶということは、エゴからの脱却を学ぶことに等しい。愛する能力を高めればエゴは減少するが、その逆も、また然りだ。

魂はどうやって、愛することを学ぶのですか?

それは、長い時間をかけて進歩させていく永続的なプロセスだ。魂は、人間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きないので、このプロセスも決して終わることがない。
話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外には、愛を発達させることはできない。
魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している存在から受ける愛を情動として体験する。それを快く感じるのだ。また、愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛することができない者のエゴも体験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情を発達させるための刺激となる。

つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示してくれる、自分より進化した者の愛の受け手として感受性を磨く。また、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合して、魂は最初に情動を、それから感情を、成長させることができるのだ。
魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準備が整った時だ。最初に始めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してくれた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取ったものには敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心も持たないただの人となる。この段階での魂は、愛すると情熱的であるが、愛を失うと報復的で恨みがましい。

魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけたものに害を与えることを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。この段階を進歩した条件付の愛、と呼べるだろう。

そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世のすべての存在を愛する、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのような進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。
もちろんこれは、一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終段階に到達するためには、途方もない歳月が必要となろう。

理解できるように、これらの段階を要約していただけますか。

いいだろう。このプロセスは継続的なものだといったが、よく理解できるように、以下の段階に分けてみよう。

1.愛の受け手としても、送り手としても鈍感。

2.愛の受け手として部分的に敏感であり、送り手としては鈍感。

3.愛の受け手として敏感で、送り手として部分的に敏感。(条件付きの愛)。

4.受け手としても送り手としても、とても敏感(進歩した条件付きの愛)。

5.受け手としても送り手としても、完全に敏感(無条件の愛)。

情動と感情の源泉となるものは何で、両者はどう違うのですか?

魂は進化の初期の段階では、情動を感じることしかできないが、通常、このような情動は、外界からの刺激に反応しているに過ぎない。
情動の感知力は、人間以前の段階から発達し始めている。実際犬や牛や馬やイルカなど、多くの高等哺乳類が、さまざまな形でかなり深い情動を感じたり表現したりしているのを認めることができるだろう。
情動を感じる体験を重ねて情動に配慮する決断をするにつれて、魂は感情を発達させ始める。感情は、情動の進化した形態、と考えてもらっていいだろう。

<次に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳






2017年11月27日追記
ボランティアで朗読し、Youtubeにアップしてくれた方が!
7分14秒までが、この記事の部分の朗読となります。