感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれる~「愛の法則」から 愛VSエゴ(我欲)②

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「愛の法則」から 愛VSエゴ(我欲)② (P177~)

情動と感情の違いと、両者の関係を、より詳しく説明していただけますか?

情動の継続時間は短く、一般的には、外部または内部の何らかの刺激によって誘発される。
感情はもっと長く続き、魂により深く根ざしており、外部からの影響を受けるとはいえ、必ずしもそれが誘因ではなく、魂自体による。
感情と情動は緊密に結びついている。感情は、情動を呼び覚ますことが可能だ。感情は情動を湧き出させる内なる泉のようで、その意味では、情動は感情の表現形態の一つである。また、外界からの影響で感じられた情動は、特に感情に影響し、感情を起動させたり抑制する刺激剤となる。

最も発達した感情は、愛である。無条件の愛の感情を体験するに至ると、それは永遠に尽きない感情なので、それを目覚めさせたり育てたりするために外界からのいかなる刺激も必要としなくなる。

情動や感情は、魂のどの部分でうまれるのですか?

愛の情動や感情は、霊体で生まれる。
利己的な情動や感情は、霊体で感じ取られるものの、エゴ的な要素はメンタル体で付加される。

お話がわかりませんが、利己的な感情や利己的な情動とは何ですか?

利己的な姿勢から生まれる、否定的な感情や情動だ。実際には、利己的な態度は、思考であるので、それらは頭で生まれる。

それでは、感情と思考は、別々の源から生まれるのですか?僕はこれまで、両方とも、頭脳の産物だと思っていました。

それが実は、同じ道ではないのだ。
感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれる。

エゴは頭脳で生まれ、愛は魂で生まれるということでしょうか?

そうだ。今言った通り、利己的な情動や感情は霊体で感じ取られるが、エゴ自体は頭脳で生まれるのだ。

その点を明らかにしてください。どうしてエゴが頭脳から生じて、そういう利己的な感情や情動は魂で感じられるかわからないのです。

もちろんだ。ガラス張りの丸屋根の下で懐中電灯をつけている人を思い描いてみよう。
屋根のガラスが透明ならば、懐中電灯が発する光も、外から内部に入る明かりも、ガラスを通って変化することはほとんどないだろう。しかし、丸屋根のガラスが透明ではなく、不透明だとしたら、内部から外部へ出る光も、外から丸屋根の中に入る光も、そこを通過することで屈折してしまう。

懐中電灯を持った人は霊体に相当し、ガラスの屋根はメンタル体に相当する。丸屋根の不透明さがエゴを象徴している。
利己主義は、他者の感情や情動(入ってくる光)をそれらが霊体に届く前に変化させてしまうので、その捉え方が変わってしまうだけでなく、霊体から生じる感情や情動(発信される光)やそれらの表現の仕方さえも変えてしまい、頭脳を通過する際の利己的要素にまみれたままで、他の人に受け取られてしまう。

愛とエゴの関係が、人間の本質にどう作用するのか、まだよくイメージできません。一体なぜ人は、愛することも利己的になることもできるのですか?この点をどうか説明して下さい。

ああ、もちろんだとも。人間というものが玉ねぎで、芯に愛という光を放つ魂を持っていると想像してごらん。
中心の光の発信元は何重もの層に包まれていて、その各々が少しずつ光の進行を妨げるので、全部の層に覆われてしまうと外に出て行く光はほぼ完全に遮られてしまう。
これらの層の一つ一つはエゴを表しているのだが、最終的に愛という光を輝かせ、その最高の表現が可能になるように、徐々に取り除かれていかねばならない。層を除去していくにつれて、内部の光(愛)は外に出やすくなる。

一番外側の層は、最も原始的で表面的なエゴに相当する。それは、虚栄心である。中間層は自尊心であり、一番内側のものは自負心である。
人はそれぞれ、エゴを消去する過程の様々な地点にいる。
地球に住む魂の大半は、最初の層の幾つかを除去できたに過ぎない。中間層の何枚かを取り除くことに成功した者もいるが、エゴの最も深層部を排除する過程にいる者は僅かである。
このプロセスは連続的なもので、種々様々なレベルの魂がいるとはいえ、大きく三つのグループに種分けしてみることができる。
層の除去段階に従って、親切で見栄っ張りな魂、寛大でプライド(気位)の高い魂、愛情深く尊大な魂に分けられる。

なぜ、肯定的な形容詞と否定的な形容詞の二つを使って分類するのですか?

分類によって、魂の利己的な部分を際立たせるのではなく、各段階の魂が発達させている資質も認めるようにしたいからだ。最初の形容詞は、魂が愛の育成に努める際に到達可能な代表的な資質を表し、二番目の形容詞は、魂のエゴの段階を示している。
虚栄心に満ちた者は大変親切になれ、自尊心が強い者はとても寛大に、また自負心のある者は、エゴに打ち克ち感情のために戦おうとする時には、とても愛情深くなれるのだ。

我々一人ひとりの中にエゴが存在することを認めて、それを自覚して克服するために定義づけをすることは、何も悪いことではない。
魂にとって悪いのは、エゴの存在を認めようとしないことなのだ。つまり、本当に愛し真に幸せになるために除去すべき利己的な部分を全員が持っている、という現実を認めないことである。アルコール中毒者が自覚しない限り治療できないのと同様に、認めないものを克服することはできないので、エゴを認識できないと霊的な停滞をしてしまう。

<次に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳






2017年11月27日追記
ボランティアで朗読し、Youtubeにアップしてくれた方が!
7分14秒からが、この記事の部分の朗読となります。