「愛の法則」から 虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)①

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)① (P182~)

あなたが、虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)と呼んだエゴの三つの顕現状態のそれぞれの特徴について、さらに詳しく説明してください。

いいだろう。虚栄心、自尊心、自負心というふうに、最も低俗なものから巧妙なものへと、少なくとも三つの形態にエゴを分類することが可能だ。
我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定義して、顕現形態を分析してみよう。

では、虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか?

虚栄心はエゴの最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では十分進歩したにもかかわらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。
虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とすることや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あるいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志を侵害していることには気づかず、自分の意志ばかり優先しようとする。
見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人たちから注目されることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違いがよくわからない、愛よりも要求が多い。それゆえ、人間関係では、愛され愛することよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分の要望が叶うことを好む。
見栄っ張りな人は常に自分と他者を比較し、いつも人よりも上位に立とうとする。能力や知的面で自分よりも下だとみなしたものを馬鹿にしたり蔑むことが多く、自分にとって有益だと思う人を過剰に賞賛する。
常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。そして、利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるのを極端に嫌う。
頼れる人がいないと困り、必要なことだけでなく趣味や気まぐれまでを満たしてもらおうと相手を思い通りに操ることが多く、周りの人を肉体的にも精神的にも縛り付けてしまう。しかし、期待通りにしてもらえなければ、すぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を自分から逃れられない所有物のようにみなし、好きなようにこき使うことがしばしばである。自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払ってでも注意を引こうとする。
この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの人々を消耗させてしまう。だから、虚栄心というものを知らず、どうあしらっていのかわからなければ、それに長い時間耐えられる人など滅多にいない。
これが、彼らには知り合いは多いのに、あまり友人ができない理由だ。誰も何もせずに自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢するにもかかわらず、努力が要ることにはすぐに飽きて、他者に責任を負わせようとする。
私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は善い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている

それなら、そんな人があまりいないことを願いますよ。

実のところ、人類の4分の3はまだこの初期の進化段階にあり、君たちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも自認できること自体がより進化していることになるので、今話したことが自分に当てはまるという人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態なのも、そのせいだ。

そんなふうに利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。

このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だとでも思っているのかね?進化していない人と一線を画そうとして、理解しかねると言い切ること自体に、君自身のエゴがチラついている。
虚栄心の段階は、その後の自尊心と自負心という段階と共に、完全性への道程において、すべての魂が一つ残らず通過しなくてはいけないものだ。
これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰でそれを成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進して、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいるといえるのだろうか?
このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心というエゴの形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んでいるのだ。

この倍は、虚栄心になって顕れるエゴのことですが、魂は、自分のエゴをどのように自覚して、克服して行くのですか?

通常は、自分と似たレベルのものの利己的な行為を、身を持って痛感することによる。「霊的裁きの法則」は、他者の行為を通してであろうと、各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られるようにする。
魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようになる。その者に対して芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。

魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか?

いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の経験から学ぶことができれば、理解したことになるので、その必要はない。しかしそのためには、感性や愛が十分に発達していなければならない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、自分のことのように感じられるからだ。
初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦しんだ方が、早く進歩ができる。一方、愛を育むことができれば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩できるのだ。

理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか?

最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。
自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにできるわけではない。自覚し認めるだけでなく、エゴに従った行動を避け、その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、エゴは次第に力を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういうものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長されるのかをしることができる。
幸せになるためには、周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めたたえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがいい、と信じることで虚栄心は増大する。
虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周りのすべてのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思い込ませるように現実を変えていまう傾向となって顕れる。
虚栄心は、進路にあるすべてのものを吸い込む掃除機みたいに自分に溜めこみはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たところ世界一素晴らしくそれなしには幸せにはなれそうにないおもちゃを買ってくれと、地団駄踏んで要求する子どものようだ。だが、おもちゃを手に入れると何分とも遊ばず、すぐに飽きて壊してしまう。
したがって、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすことばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満、空虚、不幸であり、他者から愛されてもそれがわからず評価もできない。
自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれるのを望む。
目的を持った場合には、外見的、物質的、表面的なものが多く、魂の内面的目標であることは滅多にない。
見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何もしない、自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に幸せになる力を与える。