虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)③

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)③ (P191~)

根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるのですか?

虚栄心と自尊心とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることである。
虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、本当に愛することができる能力を獲得したことを意味する。

虚栄心の強い者は愛することができない、または愛を体験したことがない、ということですか?

もちろん、そうではない。すべての魂は愛することができる。実際、自尊心のレベルに達した者は、すべてがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。
また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた期間があったのだ。
虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりを繰り返す。感情面で努力する確固たる意思に欠け、利己的な気まぐれを満たすことにまだ一生懸命なので、炎を育ぐくむことに力を注がないのだ。
別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性できずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに自分の内面に炎を起こす方法を発見している。また、その日が力強く燃える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮明な体験ができるように、確固たる意思で炎が消えないように努力している。

それでは、魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか?

自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。
虚栄心の強い者は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶だったり、父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では与えられていることも自覚できずに、もっともっとと要求し・・・、遂には失う羽目になる。
その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたいと願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人たちに対する最初の感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。
要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求されるであろう。こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認識し、自分自身と向き合うことになるのだ。

この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。
愛の道を進むのか、それともエゴの道を続行するかは、魂の意思次第なのだ。

虚栄心の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるのでしょうか?

虚栄心から充分に開放され、完全に自尊心の段階に入った魂が成し遂げたことを大まかに説明しよう。
それは、しっかりとした愛の送り手になり、感情を理解できる魂になったことで達成できたのだ。
・何よりも正義の概念がもっと進歩している。
・自尊心に達すると、外見的なものよりも本物で公正なものに気づき、より公平に行動する。
・不平等になりそうな場合は、自分が得しようとはせず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。
・もはや、ちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛することを求める。
・プライド(気位)の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになることで、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満足を得る。
・自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間関係においても注目の的になろうとはしない。
・百の表面的なつき合いよりも、一つの本物の友情を望む。

プライドの高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進歩しているので、進化の仕方も速いということでしょうか?

そのようなことはない。進化の速度は、エゴから脱却して愛そうとする、魂の意思の力のかけ方によるのだ。
自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞したままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早い進歩を遂げることがある。
だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化したものの方が能力があることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞すると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。
多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若くあまり進化していない魂とを比較することは、7歳の子どもと15歳の若者に同じ知能検査をして、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。7歳の子どもがどんなにIQが高くても、普通は15歳の方がいい結果を出すだろうが、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。
それゆえ、他者と進化の度合いの比較はするべきではなく、自分自身が前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、どれだけ速く学んだかで決まるものではなく、魂がどれだけの時間をかけて進化してきたのかにもよるからだ。
しかしながら、若い魂が大変速く進化して、自分より年上の魂を追い抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということもある。

進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例をだしていただけますか?

同地点からスタートする二台の車のうち、一台がもう一台よりも一時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れているが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。
走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズムだ。