虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)④

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)④ (P195~)

自尊心の問題に戻りますが、自尊心とは何で、どういう顕われ方をするのでしょうか?

自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的に振る舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難しい。
プライドの高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分を愛してくれない者を愛することがまだ難しい。そのため、自分が好きな者をあるがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に欠点は認めがたい。
また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に難しい。
報われない愛、すなわち、どんなに愛しても利己的な態度を改めてもらえないことが、我慢できない。両親、兄弟、伴侶、子どもなど、非常に身近な家族の場合は、特にだ。彼らを変えようと自分が努力して変化を期待するのだが、何も変えられないと絶望し、気落ちして怒ったりする。
思いやりのあるちょっとした態度を示されると意のままになるのに、操られていたと気づくと激怒し、その人に恨みを抱く。
表面的には自分の行為の代償は求めていないが、感謝されなければ、たとえば、相手を助けようと一生懸命やったのにその代わりに殴られたりすると、気持ちをどう整理していいのかまだわからない。
そのため、プライドが高い者が感謝されなかったり、失恋したりという目に遭うと、自尊心が次々に形をとって顕れる。感情を害されたり傷ついたりすると、自分の殻に閉じこもり、人間関係から孤立する。そして、怒り、憤り、無気力、恐れ、罪悪感が目覚める。
自分の奥深い感情を傷つけられるのが怖いので、気持ちを表現するのを恐れ、感情や情動を隠そうとする傾向がある。憐れみの対象になりたくないので、否定的な感情は抑圧し、弱みに付け込まれ傷つけられるのが嫌なので、他人に弱さを見せようとしない。一方、見栄っ張りな人たちの嫉妬を買って睨まれたくないので、肯定的な感情も抑圧する。肯定的な感情を抑圧しがちなことで、彼らは不幸な気持ちになる。
否定的な感情を抑圧したり隠したりして黙って耐えると、突発的に、激怒、憤り、怒りなどが爆発してしまうが、その後で罪悪感を覚える。
人を信用せず、いかなる問題も自分だけで対処できると思いこむ態度が、もっとも他の人たちから孤立させることとなる。

自尊心が最も有害な形で顕れるとどうなりますか?

自分には、真に愛されたり愛を受ける価値がないと信じこんで、愛することも無意味だと思うようになる。これは、自分自身で孤立してしまう態度で、寡黙で無気力、臆病、陰気、憂鬱で怒りっぽく、生きる気力のない人へと変貌させてしまうこともある。
前に、虚栄心の強い者は愛されてもそれを評価できないと言ったが、自尊心の強い者は、愛されることを拒んでしまう。だから、どちらの理由であろうと、その人たちは欠点のせいで、愛されていても愛されていると感じられないのだ。
虚栄心の強い者は、愛情を受け取るよりも、自分のエゴを満たしてもらうことに夢中だからだ。そして自尊心の強い者は、傷つけられるのを避けようと自分の殻に閉じこもってしまい、どんな愛情ですら受け取ろうとはしないからだ。
それは子どもの時から、僅かな注意を引くために、あらゆることをする必要があったためかもしれない。だから、もっといいことはないし、あるがままに愛されることもない、と自分を納得させてしまったのかもしれない。
そしてどうなると思うかね?自分が何をするかに関係なく、無条件にあるがままに愛してくれるという人が現れると、驚いて自分の内に隠れてしまうのだ。ただ単に信じられないので、拒絶してしまうのだ。
「私を利用しようとせずに、愛してくれるなど信じられない。これはきっと罠に違いない。受け入れようと心を開けば、きっとグサッと刺されて、もっと苦しむに違いない。だから心を開く甲斐はないと」と思うのだ。
こうして幸せになるために必要とされるものがあり、それを評価できるにも関わらず、プライドが高いとそれを拒んでしまう。そして、苦しみたくないと苦悩し、感情を優先しなかったことで苦しむ。

自尊心を克服するにはどうしたらいいでしょう?

虚栄心の場合と同じで、最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。
欠点を認識してそれがどのように具現するかの知識を得ただけでは、その出現を防ぐことはできないが、認識できさえすれば、人生で決断を下す際に、自尊心に従った行動を回避する助けにはなる。我々が心が命じるままに決断するとしたら、自尊心は徐々に弱くなり、最終的には制覇されるだろう。
自覚すると、自尊心とは何か、自分にどのように顕れるか、何がそれを増長させるのかを深く知ることに繋がる。
自尊心は、恐れや不信と自己充足から発展し、孤立や感情の抑圧という形態で出現する。自尊心は魂の感受性にとっては鎧のようで、難攻不落の城壁のごとく魂を取り囲み、感情の出入りを妨げる。それゆえ、この鎧を剥ぎ取る努力をせねばならない。
プライドの高い者が自尊心を克服するために最初にするべきことは、自分には愛される資格はないし本当に愛してくれる人に出会うこともない、という思いこみから自由になることだ。真の相思相愛を求める者は、遅かれ早かれそれを見つける。似通った魂はお互いを捜し求めるし、出会った時にお互いがわかるからだ。
だが、悪いことから身を守ろうとして扉をピッタリ閉じてしまうと、固く閉じ過ぎたために、善いことも経験できなくなるので、辛抱強く揺ぎない努力が必要だ。危害が及ばないように慎重になるのは良いが、感情を放棄しては駄目なのだ。
忘恩を忘恩で返したり、憎しみを憎しみで、恨みを恨みで返すのも良くない。我々を苦しませることは、他者をも苦しませるからだ。感性が発達して苦悩をよりよく理解できた者は、自覚がないままに苦痛を与えるよりも、苦しみを生み出す責任が重い。
すでに言ったが、繰り返しておこう。君たちは独りではないのだ。我々は一人残らず全員が、神や守護霊やその他無数の霊的存在や友人、そして肉体の有無を問わず霊的な家族に、深く愛されている。しかもそれだけではない。つまり、君たち一人ひとりには、魂の伴侶である双子の魂が存在し、それを介して、純粋な無条件の愛の目覚めを体験するのだ。ただ、そのことを自覚すればいいだけなのだ。
また、自分を傷つけた恩知らずでも、赦すことを学ばなければならない。プライドの高い者は、まだ気づいていない者を理解する力があるので、かつては自分も同じ状態であったと認識すべきなのだ。
同時に、本当の自分自身になる恐れを手放さなくてはならない。
口では愛していると言いながら、従わせたいだけの人が仕掛けた罠からが自由にならなければいけないが、反対の道を選んでもいけない。つまり、苦しみを恐れて、人間関係で孤立するのも良くない。
愛して欲しいと望むのは悪くはないが、皆の愛の能力が同じではない、と知っておかねばならない。報われたいがために、親族だからとか一緒に暮らしているからという理由だけで、相手に自分と同じ強さで、愛したり尊重してくれるように要求してはならない。
愛が与えられない場合に、もっと責任が重いのはどちらだろう?愛することを知らずに愛さない者(虚栄心が強い者)か、それとも愛せるのに欠点のためにそうしない者(自尊心の強い者)だろうか?
自己の自由意志を放棄してしまうことになるのであれば、他者を喜ばせるてめに過大な努力をすると、いずれ失望や悲しみ、幻滅や苦々しさ、怒りや無力といった形の付けを払わされる。
すでに言ったが、真の愛は、何の見返りも期待もせずに無条件に与えるもので、お返しする気のない人や全く与えることのできない人に、愛を強要することはできないのだ。

進化に役立ててもらえるように、プライドの高い人に簡潔に言えることはありますか?

苦しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。
感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、解消できない不毛な苦悩となるからだ。
考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うこと。
人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。