虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑤

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「愛の法則」から
虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)⑤ (P200~)

人の意のままにならずに、他者を傷つけないようにするにはどうしたらいいのですか?

相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人自身のエゴ、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのかを知る必要がある。
我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、相手のエゴのせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思っていても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか?

その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利があるわけではない。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分の感情や信念を曲げるべきではないのだ。

たとえば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴで苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいるのか、どうやって見分けられうのでしょうか?

相手の立場になって、どう感じるだろうか?その状況でどうして欲しいだろうかと分析してごらん。
自分が発信者または執行者となって行おうとしていた行為についての判断が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利己心や不公平な部分があったということだ。送り手としても受け手としても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。
でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双方が自分のエゴを改めねばならないのだが、エゴによらなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。
最終的には「自分にしてほしくないことは他者にしてはならない」と「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろう。

よく理解できるように、例をいただけますか?

よろしい。例を挙げよう。教育の一環として子どもを叩く母親を想像してごらん。子どもに与える肉体的、精神的苦痛を考慮していない母親によると、それは、子どもを従わせる方法だそうだ。
もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られることも問題なく容認できるということで、彼女が子どもに使ったのと同じ論拠を夫が持ち出して正当化しても、承服できることだろう。だが誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、当然だが非常に苦痛なので夫が殴り続けることには同意しないであろう。
この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子どもは同じように痛いだろうと気づくべきだ。そして現実から学ぶ気があれば、叩くことは苦痛を生み正当化できないので、それ自体が悪いことだという結論に達するであろう。
この女性には、どんな解決策があるだろうか?子どもに対する暴力の行使を放棄するので、そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることでもなく、同時に、自分自身の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配から進化できることに力を尽くせるのだ。

先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われましたが、誰かを愛すると、その人が幸せでいられるようにあらゆることで喜ばせてあげようとすることととす、矛盾しませんか?

喜ばせてあげればあげるほど、愛していると考えるのは、大きな間違いで、善意のある者が陥る大きな罠だ。
愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。
喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言うのは、誰かの機嫌をとる時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手のエゴだけだった、ということもあるからだ。
しかも、自分の自由を失って、相手のエゴに自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。

それでは、手助けと機嫌取りとを、どう見分けるといいのでしょうか?

自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。
真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるように、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。

援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さいますか?

そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラスの二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする
一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、その間子どもは楽しく遊んでいる。
もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びをやめなくてはならなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあげることにする。
最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子どもが課せられた状況であり、その子の学習に必要なものなので、援助をしていない。この父親は、息子が怠惰で依存的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を求めるようになることに、加担してしまっているのだ。
二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子が起こる可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子どもが学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助していることになる。

それなら、愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか?
いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担してしまう場合が良くないのだ。

自尊心についてに戻りますが、自尊心の段階を超えた魂は、どんな進歩を遂げたことになるのですか?

・魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには心の声に従って生きねばならないことを認識している。
・自分をありのままに見せることを、以前ほど恐れない。そのため、以前より打ち解け、明るく、自然で自由え、感情の防壁が少ない。
・自分の内にこもらなくなり、感謝をされても気にしなくなる。
・他人に、より共感できるようになる。
・ご機嫌取りに過大な努力を払わない。つまり、人の思い通りにされることが少なくなり、簡単に言いなりにならないので、恨みや怒りを覚えることも減る。
・愛しても見返りを期待しなくなる。
・心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の愛を他者に与える。
・否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受け容れることができる。
・肯定的なことをもっと楽しめるようになる。

<次に続く>

『魂の法則』ナチュラルスピリット刊
ヴィセント・ギリェム著・小坂真理訳