「愛の法則」から、エゴ的感情 怖れ②




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「愛の法則」から、エゴ的感情 怖れ②(p262~)

同じ質問をいたかもしれないのですが、エゴとその具現形態である「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

いいだろう。質問しなさい。

一般的に、エゴとその形態を克服するにはどうすればいいのですか?

最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。これとおなじように、虚栄心、自尊心、自負心に打ち克つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現するエゴを識別することで、自分のエゴを認識することだ。
そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、いつ表面化するのかを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだよ。

それは難しく思えます。

それほど難しくはない。エゴ自体が難しく見せているのだ。
他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認めるということはなぜこんなに大変なのだろうか?隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない(訳註:聖書のイエスの言葉)。我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後は簡単だ。

エゴ自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか?

有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であるかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者を置き換えてみる。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか?それとも利己的に動いただろうか?
ある言動に対して、それをする時とそれをされた時とで、自分の意見が変わらなければ、ほぼ客観的だ。しかし、同じ言動であっても、自分がした時には容認して、他者がした場合には告発するのであれば、それは不公平なのであって、エゴに翻弄されていたことになる。それゆえ、自分の欠点に気づくためには他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要がある。

そしてどうするのですか?

次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。エゴがあることを認識して受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。
別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするぞ」と言うのだ。
態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を修正できるようになる。利己的な態度は自分にとっても他者にとっても有害だからだ。

どういう意味で自分に有害なのですか?

愛を信じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では、最もすばらしいもので、我々を真に幸せにしてくれる。

態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか?

行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか?僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。
こう推敲することで「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。もちろん、簡単ではない。改善しようというゆるぎない紀律と意志が必要とされる。しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みになる。

「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか?

それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、自分にもそれがあることを認めること。それらが、エゴが顕現したもの、またはエゴと愛の内面の葛藤が表面化したものだと認めてみる。
次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす方法を見出すこと。

内面の意識的な改革とはどういうことですか?

それは自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩とエゴの排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。
完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができる。
一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動し、どれほどエゴによって行動したのか、また、他の人たちはどれほど愛またはエゴによって行動したのか内省してごらん。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなる。
他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけば、流されてしまったとわかるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しようと固く決意するのだ。
こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づく日が来るだろう。

でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか?

それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になりやすく、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。
もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中におが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。
しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を大げさに覆い隠しもせずに、あるがままに見ようといているのだ。
実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化のプロセスの一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行動を修正できるというのだろうか?

エゴに触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を赦さないといけないのだと思っていました!

赦すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとのエゴについても掘り下げる必要がある。
たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動している。
霊性進化のプロセスや克服すべきエゴの段階と、エゴがそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望、嘲笑、批判、中傷などや、もっとひどい利己的な態度を赦すことはとても難しいだろう。

それでは、自分自身がエゴのどの段階にいるのかを知ることは可能ですか?つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか?

ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかがわかるだろう。
ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身で理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することは難しい。だが、我々には旅の道連れがいる。
もう話したことだが、どの人にも指導霊たちがついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれる。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって君たちに手を差し伸べられる人がいる。
しかしこれもすべて、各人の意志による。エゴに捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。
自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれるのを聞こうともしない。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たるエゴを放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりもないのだ。